いつでもノー天気にみえそうな私ですが、たまにはちょっとへこんでしまうことだってあります。
そしてそれ以上に嬉しくて心が温かくなることも。
特にこんなお祭りの日。
今年のお祭りはどうしてもこの目でこの町の祝い方を見たくて、何を食べているのかを知りたくて他の日本人と遊びに行くこともせず家に残ると決めていました。
友達やスタッフは実家に帰る人、ここが元々実家で帰らない人や仕事で帰れなくて残る人の割合が半々。
だけど「いる場所がある」「帰る場所がある」というのをどこか羨ましく感じてしまう私。
特に仲良い友人が実家に帰ることを楽しみにしていたせいもあるのかもしれないけど。
ここではヒンディー教でもなく家族親戚もいない私は祝うこともないのです。
けど、そういえば日本でもそうだったかも?なんて思ったり。
私はいいのか悪いのか、神奈川と東京の境のような特に地元意識のすごく強い土地で育ったわけでもなく、正月をそれっぽくやるくらいで地元のお祭りなんかあったのか無かったのか、というところで育った上、両親も特にそういうことに興味が無かった気がする。
働き出してからは盆も正月も関係ない、365日24時間な職場なので特に関係なし。
私も「正月休みたい!」っていうよりは皆が働いている時にのんびり休みたい人間。
3年ほど島で暮らしていた時はやっぱりそれなりにそこ独自の祭りがあって、村人に混じってみたりしてけどその伝統と皆の引き継いでいかなければというような熱気、そしてそれがそこに生まれた人間として当たり前であるというような感覚をあまりわかることができなかったのを良く覚えています。
こういうと「どうでもいい」というような感覚なのかもしれないけれど、正直にいえばお祈りをする時「何を考えているんだろう?」なんて思ってしまう私はいけないのかもしれません。
で、結局何が言いたかったのかと言うと、どこか取り残されたような気持ちになって朝起きるのが面倒になっていたお祭りの日。
布団の中でぐるぐるぐるぐる考えて、外から楽しそうな声が聞こえてくると疎外感を感じたりして。
そんなとき、近所の子がドアを叩きにきて「今日はうちでお祭りのご飯作ってるから自分で作っちゃだめだよ」と一言。
前日も誘ってくれたのだけど、朝わざわざ言いに来てくれたことに起きる気力が出る単純な私。
そろそろと起きだすと大家さんがお茶に誘ってくれた。
そして飲み終わったころスタッフから「うちに来なよ」とお誘いの電話。
みんなあったかいなぁ。
私がここで一人で住んでいること、お祭りにどこも行かないことを知っていて誘ってくれる。
もし日本でそういう海外から来た人が居たら私はそれに気付いて誘ってあげられるだろうか?
お誘いを受けた家は、一本道のバザールの上の上の上の方。
私の部屋が下の下の下の方なのでぐんぐん坂道をあがっていく必要がある。
道を歩いていると知っている人に所々であったりして皆笑顔で声をかけてくれて、そんな挨拶がじゅわっと心に沁みたりする。
私、自分で思っていたよりも実は淋しかったのかも?
お祭りの間は誰かしら声をかけてくれて、食べきれないよって程いろんな所でご飯を頂いてこれから5日分はありそうな食べものをお土産に頂いて誰かしらが電話をくれていた。
それが本当に嬉しくて温かくなって今夜もぐっすり眠れそうです。
あしたからもまた、がんばろう。